Before Your Eyes
Clock-watcher は時計ばかり気にしている怠け者の意味
まばたきという不随意に起こり得る運動でゲームを操作しながら、ある人生を一人称視点で追体験する。まばたきによりシーンがカットされる演出に奇妙な没入感を覚え、プレイヤーは主人公であるベンジャミンの人生をまるで自分の視界で追体験しているかのように錯覚し、一体感が増していく。
最初の人生の物語を体験したプレイヤーはこの時点では嘘かどうか判断がつかないにせよ、「よくできた話だな」と感じる。そしてフェリーマンとの問答の中でじわじわと疑念が増していき、嘘つきのカモメたちが騒ぎ出したところでこの疑念は最高潮を迎える。プレイヤーは、ベンジャミンが自分の立場(自分の人生の記憶)を正しく把握しておらず、この話に嘘が隠されていることを気付かされる。
これまでプレイヤーはベンジャミンとの一体感を得ながらも、あくまで他人の人生を受け身で追体験しているだけだったが、ここでは嘘を糾弾するフェリーマンと信頼できない語り手であるベンジャミンとの間に板挟みになる。このことはプレイヤーに対して、ベンジャミンの視点から離れ主体性を持って物語を解釈するきっかけになる。つまり、ベンジャミンとの距離が少し離れたプレイヤーは多少の批判的視点をベンジャミンに持つことになり、この視点こそ、受動的に追体験するだけだったプレイヤーが以降の物語を積極的に読み解こうとする動機となる。
そして、まんまと前のめりになったプレイヤーはベンジャミンの「本当」(全て創作にもかかわらず)の人生の物語を、それこそ目がパサパサになるまで見開いて体験し、その真実に打ちのめされることになる。
巧妙に計算された、というと嫌な言い方だけど(実際は泥沼を行くような試行錯誤の結果だろうから)、ほぼ前例の無い、まばたきで操作する、という仕組みを使ってプレイヤーに物語を体験させる実装として、もうほとんどこれ以上ないくらい完璧にやっているんじゃないかと感じた。
しかし、最初に「よくできた話」を見せられて懐疑的になったプレイヤーを納得させるための真実の話として、病気で若くして亡くなった子供の話が出てくるのは、凄まじいなと思ってしまう。物語ってそういうもんだけど、こう、そんなん出されたらそりゃなんも言えなくなっちゃうよな、みたいな気持ちになる。友達がそんな話書いてたらドン引きしちゃうかも。悪口とかでは決してないけど、プロフェッショナルとしての冷たさというか、最後までアクセル踏み切る胆力みたいなものを感じた。
にしても、死後あるいは死の直前に、何者かが自分の人生を総括してくれて、さらにその内容を上位存在に受け容れられたいという思いは、本当に最後の砦のような気がしているから、あまりそれには縋らずに生きていたいけど、最終そういうのが必要になってしまうときもあるのかもしれないと最近思い始めてる。
まばたきという避けられない現象によってそれぞれの場面が強制的に終了してしまい、それに対して「もうちょっと見てたかったのに!」などと感じること、これが死に対するその人の態度を表しているんじゃないか、という問いかけをこのゲームは提示しているのかもという話があるらしい。だとしたらプレイ中ずっとヘラヘラしてた自分はどうなるんだ。
- 最初の診断後に両親の会話を盗み聞きするシーンの、"If he's never getting any better?" をシンプルに病気のことを話しているとと捉えて「これ以上良くならないなら」とかではなく「これ以上 上達しないなら」と訳したのは意図があるんだろうか。素人考えだとすぐに療養中のシーンに移るし、ここで病気が直らないことを伝えても良かったんじゃないかと思うけど、なんかあるのかもしれない。
- このゲームをプレイした直後は、上で書いたような抜け目なさにちょっと背筋が寒くなるような感覚を覚えて、このゲームに対して「ほっこり」という表現が適切かどうか考えこんでしまった。というのもこの話は悲劇ではあるので伝統的にはカタルシスというのがしっくりくるような気がしたし、それこそ上で書いたような劇的アイロニーもあって結構心がかき乱されるタイプの話だと思っていたから。だけど、総じてみると「ほっこり」も当てはまるのかもしれない。なんか「ほっこり」って心が温まるとかなごむとかそういう意味だけど、最終的にリラックスしている状態になっているということを指すのであれば、カタルシスによってストレスが洗い流された後の状態も「ほっこり」になるのかもしれない。