Chicory: A Colorful Tale
戒め
見た目のかわいらしさの割にはチャプター1から不穏な感じを少しも隠してこない。
ブラックベリー元師匠からこの物語の目的(「私の弟子が施した色はなぜ消えてしまったのか」など)がはっきりと伝えられてから最初のボス戦に突入するとき、すごくちゃんとしている脚本だなと思った。ちょっとちゃんとしすぎているかもしれないとも思ってしまった。
ボスを倒し、投げやりなチコリーから絵筆を引き継いだ主人公は、半ばなし崩し的に絵筆使いとしての旅に出るんだけど、ここから物語は中盤に入っていくのでゆったりとした下り坂の展開が続く。
最初の方は絵筆使いとしての仕事をそれなりにこなしてはいるけど、肝心の異変の原因については正体すらつかめないまま、チコリーや自分の闇とも対峙して、主人公は結構しっかりめに打ちのめされていく。
といってもここで完全にうらぶれてしまうんじゃなくて、家族や友人の親身なサポートのおかげもあって踏みとどまるのは、見た目通り健康的な話だなと思った。
家族や友人の助け以外にも、絵筆使いを信頼して頼ってくれる異世界の存在(虫)が出てくることで、色々と失敗して居場所がなくなったような気がした時にでも、必要としてくれる存在が世界のどこかにいるのかもしれないという希望を思い出させてくれる気がする。
こういうのを何にも信じられなくなる前にやれてよかった。
このゲームに限った話じゃないけど、いわゆる三幕構成の中盤のところ、主人公が問題に対処しようと旅に出るんだけどいまいちうまくいかずだんだん追い詰められていくフェーズがゲームで実装されたときに、すこし気になっていることがある。
ストーリー的にはどんどん暗礁に乗り上げて不穏になっていくんだけど、ゲームシステム的にはアクションが増えて行動範囲も広がって楽しくなっていくという、このちぐはぐな感じに対して、いわゆる「ゲームのお約束」として処理はできるけど、ちょっと(ほんとにちょっとだけど)気持ちが離れてしまうときもある。
こういうお約束になんかついていけなくなる原因は色々あるだろうけど、映画とかに比べてゲームの場合はいくつかボスやダンジョンを挟んだりと、体感的にこのフェーズが長く感じるのもあって、ストレスに耐え難くなるのもあるのかも。
このゲームではそういうストレスを放っておかない仕組みとして、「電話ボックス」が存在していたと思う。これはそもそも実家に電話をして攻略のヒントをもらえる装置なんだけど、これのセリフのパターンが結構多いので、ゲームの進め方で困っていないのにボス前後に連絡したり、特にヒントが必要ない場面でも電話することが多かった。そうすると、チコリーの闇と戦って沈んでるときはゲームのヒントではなく励ましの言葉がもらえたり、主人公に対して感情移入する装置としても機能していたと思う。ゲームのヒントという機能だけでなくストレスの緩和も担っていて、とてもよくかみ合ってる要素だと思った。
一通り各地の問題を片づけて、闇落ちしたチコリーとも戦った後主人公は文字通り試練に向かうわけだけど、その過程でチコリーとの関係も回復していく様子も丁寧に書かれている。特に「甘味が峰」の登山中、チコリーをぼんやりとしたあこがれの対象から、友人でもありロールモデルとして捉えるようになったと主人公が語るところで、「欠点も全部ふくめてお手本にしたい」というのは、本当にそうだよなと思った。そういう人が居たらいいよな。
主人公とチコリーの関係が変化する以外にも、ブラックベリーの心の闇、絵筆使いの伝統、そしてこの世界の歴史についての説明もあり、最終決戦で対峙するものを示唆するような出来事もある。
この辺りまで来ても各エリアに新たな町やサブクエがあったりして、もうアップグレードが無い分、そういうところでマンネリ感が少なくなってうれしい。
最終決戦では「主人公は本当に絵筆使いになりたかったのか」という、そもそもゲームの前提になっていた問いが提示されるのもすごい上手な感じがした。ここで、自分の意志で絵筆使いになってこの世界に爪痕を残したいとはっきり宣言することで、単なるゲームの操作キャラクターではなく自分の物語を持った存在になる。
最初のボス戦前のブラックベリーからの問いかけでも「この事態に対処するのはあなたの役目」とはっきりと決めつけられていたり、操作キャラクターである「主人公」がそういうことをするのは当たり前、というゲーム的なお約束として思い込んでいたところで虚を突かれた感じがして気持ちよかった。
ストーリーは全体的に突飛なことはしていないけど、チコリーと主人公の問題と解決までの道筋がほんとうに丁寧に書かれていて、なんかこう脚本の教科書みたいだなともちょっと思ってしまった。真面目過ぎてちょっと息苦しいような。しかも最後に開発者からの熱いメッセージまであって、なんか、本当に自分は今何をしているんだろうかとそんな気分にすらなった。
アカデミーの講義で絵を描いていると、課題を出されて絵を描かなくてはいけない辛さみたいなのを少し感じて変な面白さがあった。ずっと適当な絵をふざけて描いていたのに(そのうえ、これは本当に、自虐とかではなく、客観的に見てつまらない、すべってる絵ばかりを)、それでもコンスタントに何かを表現しなくてはいけないというのはやっぱりきついんだなと、こんなしょうもない経験からそんなことを言うのは失礼過ぎるんだけど、少し実感したようなところがある。
「愛」を表現しろと言われても何もわからなくてポケモンのスリープを描いてしまった。自分は愛を知らないし、それを表現することからも逃げていることを突き付けられてしまった。鬼達磨刺青(トーチントウ)みたいに戒めとしてこれのタトゥーを彫ってもらう必要があるのかもしれない。
どうでもいい話ではあるけど、チコリーの家族が出てこないのが少し気になった。というか主人公以外の家族の存在がほぼ出てこない。これは開発コストの問題もあるかもしれないけど、チコリーの家族を出すとどうしても比較対象としての「悪い」家族になってしまうから、ちょっと感じ悪くなってしまうみたいなのがあったのかもしれない。
自分が子供のときに、そういう「良い家族」しか出てこない作品を見たときに、なにか知らない星の話を聞いているような気持ちになったのを思い出した。「自分の周りにはこんな家族や友達はいないけど、これは自分が異常なのか?」と不安になっていた。
でも、実際いつごろから、「みんなこんなもんなんだな」と思うようになったのかはあまり思い出せない。なんか、そう思うようになってからぐっと人生が楽になった感じがある。今、なんでもいいから「みんなこんなもんなんだな」という感覚を再度得たいとすら思っているくらいに。これは何か逆に不健康な感じがする。この考えでは低きに流れるのを止めることができない。