Diaries of a Spaceport Janitor
三連休かけてみてどうだった?
毎日同じことの繰り返しなのに微妙な変化のせいでルーティンワークにもできない、ズルする以外に工夫の余地のない仕事。生活費や突発的な出費でほぼ貯金なんてできないのに、その貯金額を何倍も上回る商品が平然と売られているのが嫌でも目に付く。街はにぎわっているが、話しかけられない無関係の他人ばかりで、定期的なお祭りも、仕事がしづらくなるだけ。ヤケになったところで常に動いていないと幸運が下がっていくような気がして落ち着く暇もない。無駄に種類が多く見分けのつかない大量のモノ。意味不明な実績。そして何よりこの全ては、誰のためでもなく、自分が望んだわけでもなく、ただ「呪い」を解くためだけにやっているということ。
このゲームについて文句を言っていると、まるで自分の人生について呪詛を並べ立てているように聞こえる。それは、当たり前なんだけど、ストレス発散などの役割以外の面でもゲームと現実は相互に影響を与えているということを実感させてくれる。ゲームは所詮ゲームではなく、自分の人生にとって意味があるんだと。そんな感覚を思い出す。
最終的に「呪い」に促される形で街を出ることになるのは、シンプルに捉えるなら、困窮から脱した自分を肯定するとともに不運な時期があったことも受け容れるという、なんとなく希望ありげで包括的な印象を感じる。だが、この「呪い」が解消する時点、つまり、ある程度この宇宙港での生活に目途が立ってきたところで、旅に出る提案を受けることになるのは、「呪い」が人生における客観的な不運を象徴しているわけではないことを表しているようにも見える。
つまりこの「呪い」とは、Janitor 本人の内面における、宇宙港にとどまり続ける選択を正当化する部分でもあったのではないか。それは自信の無さや日々の生活での疲弊も原因だろうが、なによりある程度独力で生活を立て直した後となると、将来の生活やリスクを鑑みての判断だとしてもそれなりに説得力を持ってしまう。これは、常々自分が感じている、将来のセーフティネットのためだけに今を生きているという感覚と、それを正当化しようとする思考とどこか関連するように感じた。
生存の危機が解決すれば、次は実存の危機が訪れる。生活が安定して来た時点で「お前はそれでいいのか?」と問いかけてくる「呪い」は、まさしくこの危機そのものに見える。
この終わらない呪いから逃れようと強く意識することは、自助なんて非効率なことは考えず、補填できないリスクは無視して突き進むのが、人生の幸福度を上げる手っ取り早い方法なんだとする、ある種資本主義的な上昇志向と繋がってくるのかもしれない。