Kentucky Route Zero
暇だと死について考えるしかない
こちらのレビューに様々な歴史的背景や細かい元ネタ、そしてゲーム中に語られている象徴的なテーマまで語られている。もう自分で書くこととか何にもないなと思ったんだけど、なんか書きたいから書かせてもらってもいいでしょうか。
パズルではなく謎(mysteries)をデザインするという話が興味深く、ゲーム中に語られる要約されず提示の形で詳細に語られる様々な物語が大量に表れることについて配信中にぼやいた「過去の出来事を象徴しているのか未来をほのめかしているのかがわからなくて、脳にがらくたがたまっていくように感じる」というのは、まさしくこの謎に圧倒されている状態だった。
本来楽しいはずの謎が増えていく一方の話にストレスを覚える瞬間があった原因として、極めて独特な表現や心を抉るような描写をあまり見つけることができず、ただ情報を仕入れているだけという読み方になってしまったことが挙げられるかもしれない。翻訳された過程で角が取れてしまったのかもしれないけど、「そんな言い方する?」とか「そんなひどいこと言ってやるなよ」という表層的なユーモアがあまりないため、見た目や世界観のシュールさのわりに文章がおとなしく感じてしまった。と、思ってたけど Act IV をやり直したときのラム・コロニーでの一幕など結構ひどいことも言ってて自分がぼーっとしてただけかも。
レビュー中の「迷路で迷ったときの方向感覚の喪失、フラストレーション、不確実性は、パズルで行き詰まったときのフラストレーションと同様に、現代のゲームでは設計から排除されることが多い[1]」という部分が妙に気になった。自分がまさしくゼロ号線の迷路に迷ってイラついていたからという心の狭い理由もある。特に証拠はないけど、ゲーム開発の初期の時代から常にフラストレーションを減らしつつも「ゲームに参加するために努力も求め[2]」ようと、開発者たちはそのバランスを探るために悪戦苦闘していたと思っていたので、それに対する回答としてただ迷うための迷路を実装するというのは、単なるノスタルジーの発露以外のどういう意味があるのか正直わからなかったが、レビューでも言及されているようにアドベンチャーゲームというジャンル自体ががそもそも一度死んでいるようなもので、ノスタルジーとはどうしても切り離せない関係なのかもしれない。
このゲームのテキストはXanadu関連のクエストラインを見ると明らかなように感傷的なノスタルジーに陶酔することに対しては批判的だが、上記の「迷路」にせよ、メインゲームシステムの実装という意味ではとても懐古的な印象を受けた。現代では 「fun」、「juicy」ではないとして切り捨てられる要素を再発見した実装としての意図があるのかもしれないが、個人的にはこのちぐはぐさがゲーム全体に漂う複雑な依存関係、例えば、首になった仕事にしがみついたり、自分の借金の清算を救いだととらえようとしたり、死にかけのゴーストタウンでコミュニティTVを放送し続けたり、つまり時代遅れの習慣や文化を必死に延命しようとする行為に対する葛藤を表しているように感じた。
そういう役割なの。古いものを取り除き、新しいもののため場所を作るという。とても大事なことでしょう?このきのこには、もう少し敬意が払われてもいいと思うのよね。
エミリー:「あなたが帰りたい時に、迎え入れてくれるはずの場所はどこでしょう?」なんてね。
キャリントン: それで、答えは「家」なのかい?
エミリー: いいえ。答えは「墓」よ。
その延命措置にいそしむ中、無情にも嵐でコミュニティが破壊された後にもどことなく明るいというか解放感のある雰囲気が漂っていた。たしかに希望や未来を感じるようではあるけど外からの影響力がなくては起こりえなかったのかもしれないと思うと。
- 最初の Act のリリースから7年も経つとそりゃ人生のステージも結構変わるし、このゲームに漂う暇と死の雰囲気に魅せられた人も時間がたって「なんだこの話」ってなることもあるかもな。
- 話変わるけど、ゲーム全体のペースをプレイヤーキャラクターの移動速度で調整するのって有効な手法ということになっているんだろうか。うまくやっているゲームがあったら知りたい。