迷宮郷まよろば
いつか戻れるのか
全体的にやわらかい(?)タッチで描かれたドット絵の不思議な世界を歩きつつ、マップ中に隠された「おたから」を集めてゴールをめざす。ゲーム中、特にこれといったテキストはなく、世界観の説明やストーリーもほぼ語られることはない。言ってしまうと『ゆめにっき』などのウォーキングシミュレーターの一種だけど、それだけではない「なにか」を感じた。
自分がプレイ中に感じて一番印象的だったのは、一見ちぐはぐに見えるそれぞれの世界が、子供のころの思い出という点で繋がっているということ。そして、現実に戻る隙がないほど、それが徹底的に作りこまれている様にちょっと衝撃を受けた。もはや今の自分が生きている現実とつながるようなとっかかりが一つもない、ウサギの穴に迷い込んだような気がして、どこか空恐ろしさすら感じた。
なぜそんなにも遠い世界に感じたのか。ゲームの開始地点であるまよろば外町は、現在であっても日本のどこかに存在するような場所であり(実際、ゲーム中でも1時間1,2本都会と連絡する電車が通っているという設定が説明されている)、電車での旅や、旅館の一室のような部屋など、遠い異世界ではなく、小旅行のような雰囲気を常に醸し出している。それにも関わらず、どこか遠い、もう二度と体験できない世界を歩いているような気分だった。
ふと何かに気づいたのが、ファミレスの概念を表現したような抽象的な世界(「行列のできるファミレス」)を歩いているときだった。このとき、この世界に対して異様にノスタルジーを呼び起こされる理由が始めはわからなかった。ファミレスは今だって行こうと思えば行けるし、たまに行くこともある。でも、子供のころに感じたファミレスと、今、大人になってから行くファミレスって全然違う。子供のころは結構特別なイベントだったし、ミックスグリルに本気でわくわくしていたけど、もう今となっては「今日はファミレスでいいか」という消極的な選択でしかあまり行くことがないし、メニューを見ても塩分とカロリーばかりが気になる。
そういう、今も行こうと思えば行けるけど、当時の体験は絶対に再現できない、そのような類の強烈なノスタルジーを感じた。なんというか、通っていた小学校がなくなっていたりなど、もう行けなくなっている場所の方が諦めがつくというか、変わってしまったのが自分ではなく世界の方だという言い訳ができるが、まだ残っていて同じ場所に行けるのに、それでも当時には戻れないことを突き付けられるような感覚。
単純に昔の光景を想起させようと思ったら、子供のころに行ったファミレスの内装などを正確に描けば良い。しかし、このゲームはそれをせずに当時のファミレスの思い出そのものをステージにしている。懐かしい風景を具体的に再現しているのではなく、子供のころ、その場所に行ってわくわくしていた気持ちそのものを表現しようとしているような、そんな気がした。だからこそ自分にはもう二度と辿り着くことのできない場所だと感じたのかもしれない。
当時は特別だと思っていたのが、後になってみるとどこか安っぽく見える、そういう感覚の変化について語られることはよくある。それはある種の成長または老化ととらえられることもあるけど、こういう形で表現され再体験することができるなら、それは決して一方通行の変化ではないような、それが希望なのかわからないけど、ある種の可能性を提示しているようだった。
中年の視点から当時を懐かしがっているのではなく、どうでもいいものを怖がったり、ゴミみたいなものがお宝に見えたり、当時の視点そのものから見た世界を描くというのは相当難しいと思っていたが、まるでそれが自然な様子かのように難なくやってのけている風に見えて、それがどこか職人芸じみた凄みを感じた。
このゲームを通じて、自分は「子供の視点に戻ってものを見る」という行為に恐ろしさを感じていたというのに気づいた。そんなことしたらもう戻ってこれないんじゃないの、みたいに。でも、こんな風に自然体で行き来していいものなんだという衝撃が、最初に空恐ろしさを感じた理由なのかもしれない。そんなに恐れなくてもいいんだと肩の荷が下りたような気がした。