Milk inside a bag of milk inside a bag of milk / Milk outside a bag of milk outside a bag of milk
スーパーミルクちゃん
Milk 1 (Milk inside a bag of milk inside a bag of milk) は状況が分からないなか、奇抜な言動をする誰かと対話を強制させられる中で発生するどこまで妄想か分からない怪奇現象を探っていく、いわゆるサイコロジカルホラーらしいゲームではあった。それが、だれかのイマジナリーフレンドとして頭の中の会話だけで進んでいくのが特徴的なのかもしれない。
Milk 2 (Milk outside a bag of milk outside a bag of milk) では、この奇妙なイメージはすべてこの少女の認知が生み出した、いわゆる妄想であるということが最初からわかった状態だというのが少し変わった状況設定な気がした。ゲーム開始時点で作中の怪奇現象そのものにもはやなんの謎もなく、プレイヤーが探りたいのはその世界の裏(というか表?)に隠されたこの少女の現実なんだというのが、変わった体験というか、それこそカウンセリングみたいだと思った。
本当にゲーム全体がカウンセリングというか、精神疾患に取り組むことの大変さをテーマにしているみたいで、真面目なゲームだなと思った。直接の原因を洗い出して解決しようと下手にトラウマを探るとそれこそ最悪の事態になり、何か別の新しいことに集中させようとしてもそれが事故の原因になる。
それぞれのエンディングも、快方するイメージが見えない治療中の苦悩や、快方以前に現実社会に出ることで起こりうる事故など、(そもそも快方するなんてことがあり得るのか、とか)、それぞれの困難さを表現しているように見えた。そして、これら問題に対処するのは大変なんだというのを学術的に理論立った説明ではなく、感性に訴えかける形で強烈に表現していて、変な言い方だけど「教材」のような、そんな教育的な使われ方をしてもいいんじゃないかとすら思った(1日そこらで良くなったりはしないということも含めて)。
個人的には面白かったけど、もっと具体的な、解決編としての役割を期待していた気持ちもわかる。ただこのゲームでは、この少女の「現在」、つまり何らかの疾患に伴って併発している様々な問題にフォーカスしたいから、その過去、つまり原因を具体的にすることで、ここで描かれている問題が限定的なものとして扱われてしまうのではという懸念もあったんじゃないかと勝手に考えている。
Kentucky Route Zero で言われていた、「謎ではなくミステリーをデザインする」というのはこういうことなのかもしれない。具体的な原因を見つけてそれを解決する方法を探るのではなく、曖昧で複雑な関係性の結果として現在生じている問題をどう対処するかを考えるような。
- Steamのガイドにあった考察 を読んで、すごく納得感があった。実際、牛乳アレルギーや父親が心中を図ったという一説を、もしゲーム中ではっきり書かれていたら、たしかに謎解きゲームになってしまうかもなとも思った。
- 配信中、アメリカではその辺にクマでたりするんだとか言ってたけど、開発者はロシアの方だったんですね。なんかすみませんでした。外国全部アメリカだと思ってる昭和の田舎のジジイじゃん。