Noita

真剣になれ

Noita

Steam

なんだか、「成功体験のない学び」ってどう存在するのかという疑問が湧いてきた。一般に「Noitaは技術と経験がものを言うゲーム」「学習のための設計がよくできている」と言われるが、一度もランを勝利していない状態で、どの技術や経験が自分を成功へと導くのかを判断する方法はあるのだろうか [1]

「敵に近づきすぎるな」「無理な探索や戦闘は避けろ」「上側から攻撃されるな」「水ポーションを切らすな」「敵に囲まれるな」――失敗から得た教訓はリスク回避に偏りがちで、成功への道筋を示してくれにくい。

このような状況では、「これくらいだったら進んでも大丈夫」といった、探索を打ち切る判断がしにくくなる。結果として、成功するためにはこれまで避けてきたリスクを無条件に受け入れて探索を進めなくてはいけないというバイアスが生まれてしまい、どこかで無謀な行動や軽率な判断をしてしまう。

「そもそも何が失敗だったのか」を見つけるのがこのゲームの一番難しいところなのかも。状況再現が難しいのはジャンル共通の問題だけど、それに加えてNoitaは、死亡理由がほぼ全部「事故」(あるいは「わからん殺し」)のように感じる。この「事故」を起こさないためには、個々の状況で細かいリスクをどう処理するかを覚えなくてはいけない。

「爆発物を見つけたら安全を確保して離れて処理」、「縦穴に落ちない分の燃料を常に確保するよう気を付ける」、「戦闘を仕掛ける時は安全なエリアまでのルートを事前に調査」、「プロパンに気を付けて」、「雪の中に隠れているプロパンがある(は?)」……。こういう小さいリスクのハンドリングでも消耗するが、火力が足りなかったり、パークと戦術のシナジーがなかったり、「そもそもどの時点で失敗していたのか」の分析も必要になる。

「雪のどん底」(第三層目)くらいまでは、アイテムも敵もわき目もふらずに潜っていけばたどり着ける。結局「芸術の神殿」まで差しかからないと「あと一歩」の失敗ケースを得られず、最終的な杖の強化プランやパークの優先度など、全体的な戦術を組み立てる情報を得ることができない。

そんな感じで、失敗の原因とその改善方法をいろんな方法でプレイヤーから隠している、絶対に早く学習させたり攻略法を見つけたりさせないという思想を感じる。やり方は全然違うけど『SCE_2』と親近感を覚えた。どちらも暑苦しいくらい真剣なゲームで、何があってもゲームを終わらせたくないという思いを感じた。

そういう真剣さに向き合えるほど今の自分は心が強くないので、あとは自分がやってて何が辛かったかの話になってしまうんだけど。

  • 杖のビルドやリスクの発見など、ゲーム中の要素について、プレイヤーが何らかの進捗を実感するまでのペースをあえて調整しないタイプのゲームなので、終始自らの力だけで新たな情報を発見していくしかない。これは Noita に限らず高難易度ゲームに共通するものだけど、Noita の場合、発見する新たな情報が「事故のリスク」に偏ってしまう可能性があるのが、やっていて鬱々とするところなのかもしれない。
  • 外部の情報を使ってゲームについて調べるとき、自分の中でどこまで許容するかって難しくない?シード値から生成されるマップや敵の情報を事前に調べるのはズルっぽいけど、他人の動画で未踏のマップやボスを確認するのは?初見の呪文やパークを取る前に細かいスタッツをWikiで見るのは?呪文の効果的な組み合わせを自分で試す前に調べたりするのは?自分の中でどこまでアリとするかを考えているとき、それはつまり、何がダサいのかという話なんだけど、「ゲームやるのにダサいもクソも……」という思いを打ち消せるほど自分は真剣になれていない。
  • だったら全部調べろよって話なんだけど、それはそれでもう成果を出すための効率化みたいな話になってくるじゃん。巨人の肩じゃないけど、それこそもう「仕事」じゃん。自分は逃避行動としてゲームをしているので、そういうのから完全に独立していてほしいという素朴な願いがある。ゲームの世界だけでは、自分にとって初めての発見が、そのまま何か意味があることかのように錯覚していたい。
  • このゲームの面白い発見は杖のビルドに集中しているが、強い呪文が見つかってもそもそもの杖のベーススタッツが足りないとどうしようもない。だから一周目の「雪のどん底」あたりまでは、もうほぼ100%特別なことは起きないのが確定しているような気がする。だいたいローグライクの序盤ステージをやっていると、打開策がなにも見つからないような気持ちになるけど、このゲームはそれが特別やばい気がする。
  • 『Baba is You』の感想で書いたような、偶然の発見で一気に進捗したように感じられるゲームが個人的に好きなので、一つ一つのリスクとその対処法の発見を成功へと導く一歩だと信じてやっていくしかないこの種のゲームは、ちょうど真逆な印象がある。
  • 実際、様々な事故のリスクとその対策を一つずつ丁寧に処理していくなんて、「つまらないこと」の定義みたいなもんだし、みんなお金をもらわないとやってられないことかと思ってた。あえてこういう「つまらなさ」に身を捧げる背景には、自分の知らない思想や「運動」のようなものがある気すらしてしまう。あるいは、「つまらない仕事」が社会の外部に押し出されてしまったことで、神聖視というかディザスターツーリズムのように特別なものになってしまったのかもしれない。私は狂っていません。
  • さらに言うと、こうした徒労がいつか報われるのを信じることが、「勝利」が存在するゲームであるがゆえに合理性を持ってしまっていることに、心がかき乱されるような気持ちになる。非常に狭い成功の定義に結実する特定の努力しか意味をなさないという、認めたくない一つの事実を突きつけられているようで。自分の現実では、何も報われずとも少しでも前より「良く」なったことに意味を見出していくしかないのに。やっぱり狂ってるかも。
  • ごちゃごちゃ書いたけど、マウスとキーボードでやるツインスティックシューターみたいなのがめちゃくちゃ苦手なだけかも。実際、結構フィジカル(というか Disco Elysium で言う黄色(Motorics)系スキル)が必要なゲームな気がする。特にマウスやアナログスティックの操作って「手さばき(Interfacing)」のスキルが超重要だし、これまで全然育ててこなかった自覚があるのでハンデを感じてやるのが辛い。
  • これはめちゃくちゃどうでもいいんだけど、炎上しないために水をかぶるのは、なんとなく気に入らなくてやってなかった。なんか、「そんなわけないだろ」って気がして。本当は、装備切り替えでミスるのが怖かっただけ。水ポーションを装備して、水をかぶって、元の武器に戻すという操作の方が、自分にとっては炎上するリスクよりデカい気がしてできなかった。特に、水ポーションから元の武器に戻すときに「本当に前の武器に戻ってる?」って確認強迫みたいに気になってしまうのが怖かった。
  • 明らかに無謀な縦穴に突っ込んだりするの、自分でも録画を見てたら「ありえないだろコイツ」って思うんだけど、操作してる時の自分は「じゃあどこで待ってりゃ安全なんだよ」って気持ちだった。この階層でこの感じだったら、これくらい待っても大丈夫、みたいなのは経験値の問題な気がする。

まだ一回勝っただけだけど、とりあえず自分の運動能力でも勝てるっぽいというのはわかったので、もうちょっとだけやってみたいかも。というか、ローグライクゲームって一回勝ったあと、じわじわと「もう十分」って気持ちから「なんかここで終わったらもったいない気がする」って感じになっていくのってなんなんですかね。それでやってみたら「え……全然うまくなってないじゃん」っていつもなってる。


  1. あるらしい ↩︎