Ynglet

デンマークパンスペルミア説

Ynglet

Steam

落下したときに、ドゥーンとか、アウッとか、「あなた、今ミスをしましたよ!わかってます?」みたいな音が鳴らないだけで、リトライのストレスってかなり軽減されるんだと思った。

上品なゲームというか、このゲームが、「このゲーム以上の何か」であることを主張していない感じ。嘘を言っていない。夢を見せたりしない。遊びとは本来それで十分なのかも。なんか、卵かけごはんとかソーセージと卵焼きの画像に「こういうのでいいんだよ」とか言ってる、周回遅れの専門的スキルと狭い業務経験だけで生き抜く方に全ベットしたくなってるジジイみたいな感想じゃん。

急に「遊びとは」とか言いだしたのには理由があって、コントローラーのボタンを全部押すことで桐生一馬に生誕を祝ってもらえるゲーム『how to be born』を思い出して、そこから、遊びの役割についている論じているレターを見つけてなんかそういう気持ちになりました。

筆者はこのレターで、遊び場としてのゲームの役割や責任、それを実践しているゲームを紹介し、さらに大人にも遊びが必要な理由について説明している。そして、こうした遊びを大人が自ら妨げてしまう要因として「承認(Validation)」が必要なせいではないかと問いかけている。

具体的なゲームとして、『how to be born』や『Ynglet』も紹介されている。ほんと完全に良いことを言っていて、これを読んだ上で自分が感想を書いても下位互換になるのでここに書くことは何も残っていません。

筆者自身の性質として、同僚や友人など外部からの承認よりも、自己肯定感(self-esteem)を得られる自分自身による承認が遊びを阻害している場合が多いとしている。具体的な事例では、作品が抽象的すぎたり、現実感のある手ごたえがないと、「貴重な時間をこの作品に費やすべきか」という考えが頭をもたげゲームを遊べなくなってしまうと、他の人間によるレビューも挙げて紹介している。

こうした性質を「怠惰(lazy)」と表現しているのは含蓄が深かった。自分も実績だったりランキングだったり人の配信だったり、コミュニティ要素が絡むとゲームに集中できなくなると思い意識的に避けていた。しかし、そうした要素がなくとも「これって自分が時間かけてまでやる意味あるのか?」と思わせてしまうのはゲーム側にいくらか責任があり、正当な評価だという気持ちがあった。結局それだって自分自身からの承認を得たくてゲームをやってるだけじゃんという自覚は無かった、あるいは都合よく無視していた。

もっと全然遊んでていいんだという気持ちになれればいいですね。でも、あなたが自分の同僚だったとして、私が「もっと遊ぶ時間欲しいっすねー」とか無邪気に言ってるの聞いたら我慢できますか?いや、こういうこと考えてたらなんも変わらないんだよな。