The friends of Ringo Ishikawa

 

The friends of Ringo Ishikawa

Steam

あまり広くないマップとそれほど多くないアクティビティ、最終的にどうしても単調になってしまう戦闘。これらのゲームとしてのマンネリ感は、ダチと過ごす日々の輝きが卒業が近づくにつれ失われていく様子そのものを表しているのかもしれない。

最後は自ら命を賭してまでの行動におよぶ石川の選択は常に「ダチのため」が第一だが、それすらどうしても熱烈な信念からくるものには見えなくなってくる。ラストの電車内でウロチョロする石川は覚悟を決めた殉教者というより、不可解な命令を受け戸惑いながらも逆らうことのできない一兵卒のようにしか見えない。本当はもうやめたいのに他の選択肢がない、というかあえてそれを見ないようにしているという消極的な選択の結果でここにいるだけ。

これは、先んじて手放した人間ほどなぜかそれをもてはやすという、奇妙な青春の一側面と合致して、最後までそれに捧げた石川の視点からは(約束の時間になっても駅に誰も現れなかったという事実から)なんの意味もないものに写っていたということを突き付けられているように感じた。

そうした幻想そのものを半ば自暴自棄的に壊そうとしたケンは自分勝手かもしれないが、ダチのためのケンカで指を骨折して大会をあきらめざるを得なくなった経験から石川より少し早くそれに気づいていたのかもしれない。
いつか失われるものを自らの手で先んじて壊そうとしたケンと、まるで永遠にそこにあるようなふりをする石川との対比みたいなのがあるのかもしれない。

ただ一番すごいなと思ったのは、日々の単調さや電車内での所在ない様子など、上で書いた感覚はすべて自分のゲーム中の行動の反映だという点だった。
もしかしたら、プレイのしかたによってはダチとの友情を維持しようとする英雄的な自己犠牲の精神に満ち溢れたストーリーに見えた人もいるかもしれない。そこまではちょっと無理があるかもしれないけど、最後までこのゲームを終わらせたくないと思った人にとっては石川の最後の行動は純粋に友人のためを思った行動に見えたんだろうなと思う。

ゲームが終わらずにマンネリになった理由は、毎日ダチを連れて家でだらだらしてそのまま寝ていたり、由奈と会話したくて毎朝8時前に登校していたせいでエンディングのフラグにかかわるイベントを採り逃していたからかもしれない。毎日ダチと家でレンタルビデオみたりゲームやってたらダメだって言うのかよ。いや、友達が家にいるのに普通に入眠するのは確かに狂ってる。でもずっとそうしていれば本当に永遠の高3の秋を過ごすことができたのかもしれない。

  • マンガの愛子が可愛すぎて四郎に対するヘイトが増してしまった